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広島高等裁判所 平成5年(ネ)139号 判決 1995年6月29日

控訴人

村上昭夫

右訴訟代理人弁護士

生田博通

佐藤崇文

被控訴人

広島高等検察庁検事長

亀山継夫

被控訴人補助参加人

中谷昌慶

右訴訟代理人弁護士

高盛政博

原田香留夫

主文

一  原判決を取り消す。

二  控訴人が、本籍・広島市西区打越町二〇九番地亡中谷貢(明治三八年三月五日生、昭和六二年一一月一四日死亡)の子であることを認知する。

三  訴訟費用は第一、二審を通じ、第一、二審における鑑定費用及び参加によって生じた費用は被控訴人補助参加人の、その余は国庫の各負担とする。

事実及び理由

第一  申立て

一  控訴人

1  主文一、二項と同旨。

2  訴訟費用は第一、二審とも国庫の負担とする。

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  事案の概要及び当事者の主張

一  本件は、控訴人(昭和五年四月一五日生)が、母である中野ハルミ(明治四四年三月二日生、以下「ハルミ」という。)が、昭和四年四月ころ、本籍広島市西区打越町二〇九番地の亡中谷貢(明治三八年三月五日生、以下「貢」という。)と結婚したものの、大家族での新婚生活に耐えきれず、実家に戻り、数か月で入籍することなく離婚するに至ったが、ハルミが貢と同居中に懐胎して離婚後に控訴人が出生し、村上岩太郎(昭和一三年六月七日死亡)と同ミカヨ(平成元年六月一日死亡)の長男として出生届がなされたものであるとして、貢が昭和六二年一一月一四日に死亡した後に、検察官を相手方として控訴人が貢の子であることの認知を求めた事案であり、貢が昭和一〇年一月一二日に婚姻した田中フミ子(昭和一八年一一月一四日死亡、以下「フミ子」という。)との間に儲けた中谷昌慶(昭和一〇年一月一〇日生)と佐藤弘枝(昭和一三年八月二七日生)のうち、中谷昌慶が被控訴人である検察官に補助参加して控訴人が貢の子であるとは認められないと主張して争ったものである。

原審は、ハルミが昭和四年三月ころ貢と結婚し、貢と同居中に控訴人を懐胎して出生した事実を裏付けるに足りる証拠はなく、控訴人申請の親子鑑定の結果によっても貢と控訴人との親子関係の存在を推認しえないとして控訴人の請求を棄却したため、控訴人が控訴したものである。

二  前提となる事実関係

1(1)  貢は、中谷他一と同ミネの子で明治三八年三月五日ころ、出生したが、右他一の兄の中谷久太郎と同トモの長男として本籍地・広島市打越町(現在の西区打越町)二〇九番地で出生届けがなされ、昭和六年四月八日東京歯科医学専門学校に入学し、昭和一〇年三月に卒業したが、卒業の直前である同年一月一二日に田中フミ子(明治四五年三月一五日生)と婚姻し、同女との間に長男・昌慶(補助参加人、昭和一〇年一月一〇日生、昭和四一年六月一三日伊藤美保子と婚姻)と長女・弘枝(昭和一三年八月二七日生、昭和四〇年三月三〇日佐藤調と婚姻)を儲けた。ところが、フミ子は昭和一八年一一月二四日に死亡し、貢は、昭和二四年二月五日、清水俊子(大正元年一〇月五日生)と再婚してその旨の届け出をしたが、右俊子は昭和六一年四月一七日に死亡し、自己も昭和六二年一一月一四日に死亡した(甲四、五、四二の1、乙七、証人中谷昌慶)。

(2) また、貢の父・中谷他一(明治三年二月一七日生)は、明治三八年三月一三日中谷家の家督を相続し、妻・アヤノ(明治一三年四月一五日生)が明治四五年六月一七日に死亡したので、大正四年六月九日辰口ミネ(明治一八年三月二五日生)と再婚し、同女との間に長女・清子(大正四年九月三日生、昭和二〇年八月七日死亡)、二女・歳枝(大正七年一月一六日生、昭和二七年八月八日松原博臣と婚姻)、長男・保(大正八年一〇月一六日生)、二男・正(大正一〇年七月六日生、その後死亡)、三女・愛子(大正一二年四月一二日生、昭和二一年九月一一日榎野忠義と婚姻したが、昭和三一年二月一三日協議離婚)、四女・光枝(大正一四年一〇月二一日生、昭和二三年一〇月二一日山崎嘉夫と婚姻)の二男四女を儲けたが、昭和九年二月二四日に死亡し、長男・保が中谷家の家督を相続したが、右保も昭和一五年一月二九日戦死し、ミネも同年七月二〇日に死亡した(甲四、三〇、四二の1)。

2  ハルミは、戸主であった波田野(改姓前は波田)粂太郎(慶応二年一一月二五日生、昭和一七年八月一三日死亡)と同トメ(明治四年五月九日生)の三女として明治四四年三月二日に本籍地である広島市打越町(現在の西区打越町)一二九番地で出生したが、昭和一四年八月一六日、中野輝雄(明治四二年三月一七日生、本籍・広島県芦品郡国府村大字高木甲四三九番地、昭和二〇年三月四日戦死)と婚姻し、同人との間に長男・侑(昭和一四年一〇月三〇日生)、二男・博文(昭和一七年五月一日生)、三男・武(昭和一九年一月二日生)を儲けた(甲八、九、四二の2)。

3  控訴人は、戸主である村上岩太郎(明治一九年二月二日生、本籍は広島県安佐郡三篠町(現在の広島市三滝町)大字新庄一二五八番地)と同ミカヨ(明治三七年九月一二日生)の長男として昭和五年四月一五日に出生届がなされ、昭和三四年一二月一六日に堀那智子と婚姻し、同女との間に一男一女を儲けており、また、ミカヨは、昭和一三年六月七日に夫・岩太郎が死亡し、昭和三七年一一月二〇日、村上一三(明治四三年七月二五日・本籍は東京都文京区駒込林町一九一番地(現在の千駄木五丁目一八番一二号))と再婚し、同人との間に長女陽子(昭和一六年四月一六日生)を儲けたが、平成元年六月一日に死亡した(甲一ないし三、一〇、一四の1、控訴人)。

以上の中谷、村上、波田野家の戸籍関係については別紙家系図のとおりである。

4  貢と控訴人との親子関係の判定に必要な資料のうち、ハルミとその子とされる控訴人、貢とフミ子の子とされる中谷昌慶、佐藤弘枝の四名の血液、唾液、指紋が採取され、原審における鑑定資料として用いられたが、貢については、生前の広島赤十字・原爆病院での血液検査等の検査記録しか証拠として提出がなく、それによると、貢については、血液型がA型(ABO式)、D型(Rh・Hr式)であることが判明するだけであり、フミ子については死亡しており、関係資料の提出はない(原審における鑑定人石津日出雄の鑑定結果、弁論の全趣旨)。

5  ハルミ、控訴人、中谷昌慶、佐藤弘枝の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型の検査結果は別紙一のとおりである(原審における鑑定人石津日出雄の鑑定結果)。

6  ハルミが控訴人の母とした場合、ハルミと控訴人の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型から控訴人の父が必ず有している遺伝子型が推定でき、他方、中谷昌慶、佐藤弘枝の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型から両親である貢・フミ子の遺伝子型が推定しうるが、フミ子が既に死亡しているため、中谷昌慶、佐藤弘枝の右検査結果から貢の遺伝子型の推定が多くの形質で限定できない結果となるが、ハルミと控訴人の右検査結果から推定できる父親の形質で限定されるものと中谷昌慶、佐藤弘枝の前記検査結果から推定できる貢の形質で限定されるものとを対照すると、別紙二のとおりであって、双方が限定・対比しうる形質に関しては、貢が控訴人の父であることを否定する形質は存在しない〔原審における鑑定人石津日出雄の鑑定結果、原審証人石津日出雄の証言(以下、右鑑定結果と証言を含めて「石津鑑定」という。)〕。

7  ハルミ、控訴人、中谷昌慶、佐藤弘枝の両手(一〇指)の指紋の紋型を生物的学分類法によって分類すれば別紙三のとおりであり、控訴人の右手の指紋の紋型はハルミと基本的に一致し、左手についても比較的相似性が強いが、控訴人の父はU紋の多い男と推定されるところ、中谷昌慶、佐藤弘枝の父・貢もU紋を多く有していたものと推定される(石津鑑定)。

8  控訴人の顔貌はハルミとの相似性が認められるが、眉毛の形質が外側の三分の一のところでつり上がる特徴がハルミとは異なるところ、貢の写真によれば、貢の眉毛の形質も外側の三分の一のところでつり上がる型を示しており、控訴人の特徴に酷似しており、貢の成育した打越町に在住していた藤井富枝(大正九年五月一日生)も貢と控訴人の顔貌がよく似ていることを指摘する(石津鑑定、甲四三、検甲一)。

9  ハルミ、控訴人、中谷昌慶、佐藤弘枝の各血液をDNAフィンガープリント法〔DNA中に存在するミニサテライト(核酸塩基配列の繰り返し部分)の長さは個体により異なりメンデルの法則により親から子に遺伝することを利用して、ミニサテライトを調査し、遺伝的な矛盾の存否を検討する方法で、マルチローカスプローブ(MLP)という試薬を用いる方法(33.6と33.15の二種の各プローブを使用して全DNAの各所に散在するミニサテライトを検出)とシングルローカスプローブ(SLP)という試薬を用いる方法(MS1、MS8、MS31、MS43a、g3の五種類のプローブによりヒトDNAの特定の位置にあるミニサテライトのみを検出)の併用により、レントゲンフィルム上にバーコード様のバンド(DNAフィンガープリント)を得るものであるが、シングルローカスプローブを用いた検査はマルチローカスプローブを用いた検査の結果の確認のために用いる。〕により検査した結果のうち、主となるマルチローカスプローブを用いた検査結果は別紙四のとおりであり、バンドの一致率が中谷昌慶と控訴人の場合が32.5パーセント、佐藤弘枝と控訴人の場合が31.0パーセントであるところ、一般に二者間のバンドの一致率は非血縁者間で11パーセント前後、第一度の血縁関係が55.5パーセント程度、第二度の血縁関係が33.3パーセント程度となることからみて中谷昌慶、佐藤弘枝と控訴人は非血縁関係ではなく第二度の血縁関係にあると考えるのが相当と判断されている〔乙二三、当審における鑑定人保里昌彦の鑑定結果(以下「保里鑑定」という。)〕。

10  ハルミは父・粂太郎と貢の父・他一とが従兄弟で、実家の波田野家と中谷家とは歩いて三分位の近距離にあり、貢とは許嫁の関係にあったが自分が我が儘なため、身内からも大家族の中谷家に嫁入りしてやっていけるか危惧されており、昭和四年三月末ないし四月初旬ころ、川野保五郎(当時の広島信用金庫理事長)の媒酌で中谷家において貢と結婚式を挙げたが、直後、女中が結婚のため辞め、大家族(夫・貢と両親である他一・ミネ夫婦、保、正、清子、歳枝、愛子、光枝の家族と下男二人、下宿人一名の合計一二名)の世話を一人ですることになったため、これに耐えられず、二、三か月で実家に戻り、媒酌人に説得されて一旦中谷家に戻ったものの耐えきれず、同年一一月ころ、再び実家に戻ったが、既に、貢との間の子を妊娠し、昭和五年四月一五日、控訴人を出産したが、中谷、波田野両家の話し合いで控訴人が中谷家に引き取られたものの、結局、子供がなかった村上岩太郎・同ミカヨ夫婦の長男として出生届けがなされ、岩太郎死亡後、東京在住の村上一三と再婚したミカヨの手で養育されていたが、ハルミは、昭和二八年ころ、ミカヨの同級生から控訴人の住所を聞き出し、再婚後に生れた子供の学校担任に事情を説明して、その上京の際、控訴人宛の手紙を託して届けてもらい、二、三年後に親子の名乗りをしたと供述する(甲三八の1、原審証人中野ハルミ)。

11  控訴人を養育したミカヨも、再婚した村上一三に対し、大正一五年三月二二日に婚姻した前夫・岩太郎との間に実子はなく、岩太郎の本家や親戚である新宅に勧められ、ハルミと貢の子で生れた直後の控訴人をもらい受け、『昭夫』と名付け、長男として届け出て養育し、控訴人が小学校に入学する前まで、歯科医でもある貢にその成長ぶりを見せに連れていったところ喜ばれ、同女の治療も無料にしてもらっていたが、昭和一六年に教員であった一三と再婚し、その後、控訴人を連れて上京して生活するに際し、貢から高額の餞別をもらい、その後、控訴人が中学生のころ、自分は生みの親でなく、貢が父親であることを打ち明け、さらに高校生のころ、実母はハルミであることを話したと生前に説明しており、控訴人が本訴を提起した後の昭和六三年一一月二六日に事実を明らかにすべく打ち合わせ、平成元年六月六日事情説明のために広島へ行く準備をしていた最中の同月一日脳溢血により死亡した(甲一四の1、2、一五ないし一七、弁論の全趣旨)。

12  さらに、ハルミと貢の媒酌人とされる川野保五郎の長男の妻・川野フサ子(平成五年五月二一日当時七七歳)も、保五郎から貢とハルミの媒酌をしたこと、ハルミが実家に戻ってから貢の子を生んだことを聞いており(甲四六、検甲四)、ハルミと貢が共に成育した打越町に現在も居住しているハルミの幼なじみである山下卓美(平成五年七月三日当時八二歳)も、貢とハルミの結婚式のために、地元の慣習に従い、花嫁の腰が落ち着くようにと青年団でお地蔵さんを中谷家に運んだ記憶があるといい(甲四九、検甲七)、当時、右打越町に居住していた藤井富枝(大正九年五月一日生)、西井清子(平成五年五月一九日当時七七歳)、宮田アキ子(明治四一年一一月八日生)、西本ヤエ子(大正四年一月一日生)や控訴人の養母・ミカヨの従姉妹に当たる谷川アイ子(明治四三年七月一日生)らは、いずれも貢とハルミが結婚をしたものの離婚し、ハルミが実家に戻ってから貢との子供が出生したことを知っており(甲三六の1、四三ないし四五、四八、検甲一、二の1ないし3、三、六)、また、控訴人の養父方の児玉玉枝(明治四〇年三月二〇日生)も自分が二四、五歳のころ、貢とハルミが結婚したものの離婚し、ハルミの実家で控訴人が生まれたが、新宅トヨの世話で出生直後、実家の村上岩太郎、ミカヨの下に貰われてきたことを知っており(甲三三の2、五一、検甲九)、中谷、村上両家の遠縁にあたる新宅ツネ子(平成五年四月当時七九歳)やその長女・品川八重子(平成五年五月四日当時五八歳)は、貢の妹の歳枝、愛子、光枝が常日頃ハルミのことを「お姉さん」と呼んでいたことを見聞きしている(甲五二、検甲一〇)。

13(1)  控訴人は、自己の写真として一歳(昭和六年、甲二〇)、五歳(昭和一〇年、甲二一)、七歳(昭和一二年、甲二二)、一〇歳(昭和一五年、甲二三)、一九歳(昭和二四年、甲二四)、二三歳(昭和二八年、甲二五)、五九歳(昭和六四年一月七日、甲二六)の各時点での写真と出生直後の昭和五年ころ、貢とともに写したとする写真(甲一一)を証拠として提出しており、右写真について児玉(旧姓新宅)玉枝(明治四〇年三月二〇日生)やハルミの甥・山本(旧姓三浦)トラヨ(大正三年三月三〇日生)も右写真(甲一一)に控訴人とともに写っているのが貢であると指摘する(甲三四、三五の各2)。

(2) 控訴人は、ハルミの写真として、中野輝雄との結婚写真(甲四〇)以外に結婚相手を切り取った衣装を異にする結婚写真(甲四一、控訴人は、ハルミの姉・久都内キヌヨが所持し、貢と離婚したため、一部を切り取ったと説明する。)、二一歳から三〇歳までの写真三葉(甲五四)、四二歳(昭和二八年、甲一二)の各時点の写真を提出する。

(3) 控訴人は、貢の写真として、二四歳(昭和五年、前記甲一一)、昭和三八年(甲三二)、昭和六〇年(甲二七)の各時点の写真を提出する。

三  争点

1  控訴人はハルミと貢の子であり、貢に対して認知請求権を有するか。

(1) 控訴人はハルミの子であるか。

(2) ハルミは、貢と昭和四年四月ころから同年一一月ころまでの間結婚して同居していたことがあるか。

(3) 控訴人は貢の子であるか。

2  控訴人の貢に対する死後認知の請求権の行使が権利濫用といえるか。

第三  証拠関係

本件記録中の原審及び当審における書証目録、原審における証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第四  争点に対する判断

一  争点1

1  (1)について

ハルミは、原審における証人尋問において控訴人を出産した趣旨の供述をしていること(前提事実10)及びこれを裏付ける媒酌人とされる川野保五郎の長男の嫁・川野フサ子、ハルミの幼なじみの山下卓美、近隣の居住者である藤井富枝、西井清子、宮田アキ子、西本ヤエ子、控訴人の養母・ミカヨの従姉妹である谷川アイ子、控訴人の養父方の児玉玉枝らの各供述記載(前提事実12)が存在すること、石津鑑定によれば、ハルミ、控訴人の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型の検査結果が別紙一のとおりであり(前提事実5)、その二三種類の形質の対比によればハルミが控訴人の母である確率は99.98パーセントを越えると判断されること(石津鑑定)、控訴人の顔貌(顔面形、側面から見た鼻部及び口部)の特徴はハルミと相似性が強いこと、ハルミ、控訴人の両手(一〇指)の指紋の紋型を生物学的分類法によって分類すれば別紙三のとおりであり、控訴人の右手の指紋の紋型はハルミと基本的に一致し、左手についても比較的相似性が強いことが認められること(前提事実7)を総合すれば、控訴人はハルミの子であると認めるのが相当である。

2  (2)について

ハルミは、前提事実10にみるとおり許嫁の関係にあった貢と昭和四年四月ころから結婚し、同居したが、大家族に耐えられず、同年一一月ころ、実家に戻り離婚した旨原審における証人尋問において証言し、その旨の陳述書を作成しているうえ、その供述内容どおりの媒酌人と結婚式及び離婚の事実が前提事実12にみるように前記川野フサ子、山下卓美、藤井富枝、西井清子、宮田アキ子、西本ヤエ子、谷川アイ子、児玉玉枝らの供述記載によって裏付けられ、戸籍上も届出のある中野輝雄との結婚写真(甲四〇)以外に結婚相手を切り取った衣装を異にするハルミの結婚写真(甲四一)が存在し、貢と離婚したため、その一部を切り取り、ハルミの姉・久都内キヌヨが所持していたものとの説明を付加して当審に証拠として提出されていること(前提事実13(2))などに照らすと、控訴人主張のとおリハルミが貢と昭和四年四月ころから結婚し、同居したが、大家族に耐えられず、同年一一月ころ実家に戻り離婚したとの事実が認められるというべきである。

この点に関し、貢の妹に当たる松原歳枝が、ハルミが貢と結婚して中谷家で暮らした覚えはない旨を記載した陳述書(乙一八)が証拠として提出されているものの、同人は、療養中で証言できないとして原裁判所の採用した証人尋問期日に出頭せず、現実には直接の反対尋問権が行使されておらず、前提事実12にみるような前記川野フサ子、山下卓美、藤井富枝、西井清子、宮田アキ子、西本ヤエ子、谷川アイ子、児玉玉枝らの供述記載(前提事実12)やハルミ自身の証人尋問の結果(前提事実10)と対比して信用しがたいといわざるをえず、他に前記認定を左右するに足りる証拠はない。

3  (3)について

ハルミは、貢と結婚し、貢との間に子を妊娠し、実家に戻って控訴人を出産した趣旨の証言をしており(前提事実10)、これに沿う養母・ミカヨ、近隣の居住者や近親者の供述記載があり(前提事実11、12)、控訴人の出生直後、貢とともに写したとされる写真(甲一一)が証拠として提出され、児玉玉枝や山本トラヨも右写真に控訴人とともに写っているのが貢であると説明し(前提事実13(1))、ハルミが控訴人の母とした場合、ハルミと控訴人の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型から控訴人の父が有していると推定される遺伝子型と貢の子である中谷昌慶、佐藤弘枝の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型から推定される貢の遺伝子型のうち、ハルミと控訴人の右検査結果から推定できる父親の形質で限定しうるものと中谷昌慶、佐藤弘枝の右検査結果から推定できる貢の形質で限定しうるものとを対照すると、双方が限定・対比しうる形質に関しては、貢が控訴人の父であることを否定する形質は存在しないこと(前提事実6)、ハルミ、控訴人、中谷昌慶、佐藤弘枝の両手(一〇指)の指紋の紋型を生物学的分類法によって分類すれば、控訴人の父はU紋の多い男と推定されるところ、中谷昌慶、佐藤弘枝の父・貢もU紋を多く有していたものと推定されること(前提事実7)、控訴人の顔貌のうち、眉毛の形質が外側の三分の一のところでつり上がる特徴がハルミとは異なり、貢の眉毛の形質も外側の三分の一のところでつり上がる型を示しており、控訴人の特徴に酷似しており、貢の成育した打越町に従前居住していたことのある藤井富枝も貢と控訴人の顔貌がよく似ていると指摘すること(前提事実8)、当審における保里鑑定(ハルミ、控訴人、中谷昌慶、佐藤弘枝の各血液をDNAフィンガープリント法により検査した結果)によれば、貢の子である被控訴人補助参加人中谷昌慶及び佐藤弘枝と控訴人は非血縁関係にあるとみるべきでなく第二度の血縁関係にあるとみるのが相当と判断されていること(前提事実9)を総合すれば、控訴人は既に認定したハルミと貢の子であり、貢は控訴人の父であると認めるのが相当である。

この点に関し、被控訴人補助参加人中谷昌慶は、右6ないし8の前提事実等から、控訴人が貢とハルミの子であると判断する石津鑑定に対し、右石津鑑定の前提とする資料によっては控訴人が貢の子であることを確定しえないとして鑑定人小林宏志の意見書(乙四)、補助意見書(乙一七)を提出し、原審証人小林宏志の証言を援用するところ、右小林意見は、貢については血液がA型(ABO式)、D型(Rh・Hr式)であることだけが判明していることを前提として、控訴人とその母・ハルミ、死亡した貢とフミコの子である被控訴人補助参加人中谷昌慶及び佐藤弘枝の四名の血液型、血清型、赤血球酵素型、白血球型、唾液型を判定し、その対比だけでは従来の血液型を主体とする親子鑑定法で必要とされる確率には達しないから貢が控訴人の父であることの積極的確定はできないというにあるが、その確定しえない理由が貢とフミコの死亡による鑑定資料自体の不足にあり、もともと、親子鑑定は関係者の供述等の他の証拠と相まって親子関係の存在を認定するための一資料であって、ハルミの証言(控訴人がハルミの子であり、貢と昭和四年四月ころから結婚し、同居したが、大家族に耐えられず、同年一一月ころ実家に戻り離婚したことなど)を裏付けるに足りる諸事実が前提事実7ないし9、11、12、13(1)のとおり認められ、その証言に信用性の裏付けがあり、さらに当審における保里鑑定の結果も参酌すれば、控訴人が貢の子であることは優に認められるというべきである。

また、被控訴人補助参加人中谷昌慶は、保里鑑定の採用するDNAフィンガープリント法は、そのもととなるDNA鑑定自体が近年開発されたばかりで、研究途上の分野であり、本件のような従来判定の困難な半同胞(父のみを共通にする兄弟姉妹)関係について判定を行う方法はいまだ試験段階に止まり、実用化は時期尚早というべきであり、その手法は単なるバンドの一致数に基づくもともと誤差の多い手法で、専門学会の承認を得ておらず、信用に値しないと主張し、保里鑑定についても筑波大学社会医学系教授三澤章吾の意見書(乙二〇)を提出するが、DNA鑑定は従来の遺伝形質の表現型を個々的に分析する手法に代えてそのもととなる個人に特有なDNAを直接一括分析する方法であって、それ自体有用な鑑定方法であると考えられるうえ、前記三澤意見書も保里鑑定が採用したDNAフィンガープリント法そのものの合理性を前提にした意見であって、保里鑑定の結論自体を否定する趣旨のものとは解せられず、本件では、既に判断したとおりハルミの供述(それが基本的に信用に値することは既に説示したとおりである。)のみならず、控訴人が貢の子であることを裏付けうる諸事実が前記認定のように認められているうえ、本件におけるDNAフィンガープリント法の結果(保里鑑定)は右諸事実にも合致し、信用性が認められると判断するものであり、被控訴人補助参加人中谷昌慶の前記主張は採用しない。

二  争点2について

被控訴人補助参加人中谷昌慶は、控訴人が貢との父子関係を高校生の時に知らされ、自己が戸籍上の父・岩太郎の実子でないことを知りながら、その後、岩太郎の財産を売却換金し、貢の死亡まで認知請求せず、その死亡後になって初めて本訴に至ったのは、貢に認知請求をすれば、控訴人との父子関係を否認するかあるいは控訴人に遺産を与えない旨の遺言等の法的措置を講じたり、また、岩太郎の相続人から遺産の返還ないし損害賠償を請求されることを恐れたもので、本訴は権利濫用と主張するところ、岩太郎は控訴人が実子でないことを熟知しながら、妻・ミカヨとの間の実子として届け出ており、自ら養育した控訴人に遺産を与えないことを遺言することも可能であったのに右手段を講じていないことが弁論の全趣旨により明らかなうえ、仮に、岩太郎の遺産の処分に関し、その相続人との間に紛争が生じる余地があるとしても、本訴とは別途解決されるべきことであり、また、妻子ある男性に対して、その生前に認知請求をすることは社会的にみて容易とはいいがたく、かつ、死亡後の認知期間が三年と期間が制限されている(民法七八七条)から、死後になって直ちに認知請求したとしてもそのことが権利濫用となる事情とはいえず、貢の生前にいわゆる親子鑑定をしておれば、むしろ、控訴人が本訴で被控訴人補助参加人中谷昌慶らに指摘されるような親子鑑定資料の不足による親子関係確定のための確率の低下はなかったもので、本訴の経緯に鑑みれば、本訴が右鑑定資料の不足による確率の低下を利用する意図で死後になって提起された事情は認めがたいから、この点に関する被控訴人補助参加人中谷昌慶の主張は採用しがたい。

第五  結論

よって、控訴人の本訴請求は理由があるから認容すべきところ、これと結論を異にする原判決は不当であるから、これを取り消すこととし、訴訟費用の負担について民訴法九六条、八九条、九四条後段、人事訴訟手続法三二条、一七条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 荒井眞治 裁判官 古川行男 裁判官 岡原剛)

別紙家系図〈省略〉

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